都市計画学会として、被災を受けた都市の復興やまちづくりに関する調査はどのようにあるべきか、復興に関する様々な事例をどのように蓄積し、社会に還元していくべきかを考え、その方針と実施方法を具体化した「都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)」を作成する。
日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)(2008.03.07 公開)
日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針趣意書(2008.03.07 公開)
新潟県中越沖地震調査報告第2弾(2007.08.10 公開)
新潟県中越沖地震調査報告(2007.08.08 公開)
能登半島地震調査報告(2007.05.10 公開)
日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)(2008.03.07 公開) |
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2007年3月31日
日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案) 一部抜粋
地震災害復興調査活動指針(案)作成分科会
1.都市計画学会の役割
・ 日本都市計画学会は、防災復興研究委員会を設置し、地震災害が起きた時に委員会が中心となって調査団を作り、第2項に掲げるような目的を持って調査に行う。
・ 学会調査の活動状況や結果は、報告会の開催、Web上での公開、報告書の発行等を通じ、迅速にかつ広く学会員と社会に知らせる。
・ これらのことによって、広く学会員と社会で情報や知識を共有するとともに、会員が個人で行う調査の重複を避け、被災地の機関や被災者に過度の負担をかけることを回避する。
・ また、同様に他学会の調査団との調整を行い、調査の重複を避ける。
・ 本指針は、この委員会ならびに調査団の活動指針をまとめたものである。
・ 学会員はこの指針を遵守した上で委員会や調査団に参加することが出来、一方個人で行う調査は出来るだけ委員会や調査団と連携調整をとって実施することが望ましい。
2.調査の目的
地震災害により被災した地域の被害状況および復旧・復興状況を時系列で把握し、復旧・復興過程における問題点と知見を都市計画的視点から抽出し、それらを記録・蓄積するとともに、得られた知見・教訓を、@当該地震災害の復旧・復興の取り組み、A以降の地震災害に備えた事前の防災や都市計画の取り組み、B以降の地震災害からの復旧・復興の取り組み、に活かすことを目的とする。
3.調査倫理に関する基本方針
4.学会内の体制
5.調査の必要性の判断と調査体制の決定
6.経費の負担と事故責任
7.都市計画学会調査団としての認定可及び表示
8.調査の内容
分科会名簿
委員長 池田 浩敬 富士常葉大学
幹 事 村尾 修 筑波大学
幹 事 村上 正浩 工学院大学
委 員 饗庭 伸 首都大学東京
委 員 青田 良介 兵庫県
委 員 市古 太郎 首都大学東京
委 員 加藤 孝明 東京大学
委 員 齋藤 實 東京都
委 員 佐藤 慶一 東京工業大学
委 員 澤田 雅浩 長岡造形大学
委 員 照本 清峰 人と防災未来センター
委 員 中林 一樹 首都大学東京
委 員 福留 邦洋 新潟大学
委 員 紅谷 昇平 人と防災未来センター
委 員 牧 紀男 京都大学
委 員 薬袋奈美子 福井大学
委 員 吉川 忠寛 防災都市計画研究所
日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針趣意書(2008.03.07 公開) |
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日本都市計画学会 地震災害復興調査活動指針趣意書
1999年末に都市計画学会の中に防災・復興研究委員会が設立され,2000年度から本格的な活動が始まった.具体的には,1999年台湾集集地震や2003年宮城県北部地震の復興調査,連続セミナー,そして大会時のワークショップなどが実施され,これらの活動を通じて復興研究の意義と調査方法について模索してきた.その一方で,復興という社会現象を調査する重要性と難しさを痛感した時期でもあった.
ある地域に大規模な自然災害が発生すると,その地域の都市基盤施設や建物など物的な環境が被害を受ける.そして主にそれらの破壊により人的被害が発生し,ネットワークにより複雑なシステム体系となっているライフライン施設などに影響を及ぼす.そして救命・救助活動,消火活動,緊急避難,復旧活動,避難生活,ボランティアによる支援,被害調査,罹災証明の発行,仮設住宅の建設と入居,心のケア,経済的影響,産業への波及,復興事業,まちづくり支援などと関連して,ありとあらゆる問題が顕在化してくる.それらのほとんどの事象は,「都市計画」あるいは「復興」と関連づけることが可能であろう.おそらく,被災から復興までの過程の中で挙げられるすべての事象は,普段我々が何気なく暮らしている現代都市での日常活動を裏側から見ているにすぎない.地震災害から数年間もしくは数十年にわたって展開される復興という事象を,「都市計画」という視点からどのように体系づけ,調査したらよいのか.この困難な命題について検討し,「地震災害復興調査活動」の指針を作成することが我々に与えられた課題であった.
この指針を作成するために,分科会として以下の3つのテーマを柱に検討してきた.
1.地震をはじめ災害が発生した後の本学会としての被害調査と継続的な復興調査の実施
2.上記調査を実施するための学会としての体制と運用方法の確立
3.得られた調査成果の会員間の共有(データベース化など)と社会還元
そして2004年度から2006年度の3年の間に,11回にわたる分科会で議論が交わされ,この地震災害復興調査活動指針が作成された.その後,2006年度の学術研究論文発表会においてWSを開催するとともにHPにおいて公開し,広く会員からの意見を募った.今後,学会内での検討・オーソライズの手続きを経た後,本指針に基づく組織・体制の構築・運用がなされることを希望するものである.
2007年3月
地震災害復興調査活動指針作成分科会 池田浩敬
新潟県中越沖地震調査報告第2弾(2007.08.10 公開) |
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日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)作成分科会
池田浩敬(富士常葉大学)・澤田雅浩(長岡造形大学)・福留邦洋(新潟大学)
2007年7月27日(金),新潟工科大学において,新潟県中越沖地震で大きな被害を受けた柏崎市の東本町の「えんま通り商店街」の復興を考える組織として,商店会,柏崎市役所,地元建築士会,県内の4大学(新潟工科大学,新潟大学,長岡技術科学大学,長岡造形大学)からなる組織の立ち上げの会議が行なわれた.
当該組織は,今後,当該地区の被害の現況や商店会・住民等の意向調査を行なうとともに,参考となるまちづくり事例や活用可能な事業事例等に関する情報提供,復興プランの作成に向けたワークショップの実施などを行なっていくことが話し合われた.
また当該組織では,そうしたプロセスの中で,建築学会や都市計画学会と連携していくことも視野に入れており,その連絡調整の窓口として,今回,日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)作成分科会 代表の池田(富士常葉大)が当該会議に参加した.
今後,当該組織と学会の連絡調整の窓口として,会議に参加するとともに,学会員に対し当該組織の活動についての情報提供を行っていくこととなった.
なお,本分科会のメンバーでもある澤田,福留の両氏は,それぞれ県内4大学の関係者の立場で当該組織に参加し活動している.
文責:池田
新潟県中越沖地震調査報告(2007.08.08 公開) |
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日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)作成分科会
照本清峰(人と防災未来センター)・市古太郎(首都大学東京)・紅谷昇平(人と防災未来センター)
1.はじめに
2007年中越沖地震は7月16日10時13分に発生し,死者11名,建物全壊棟数は1000棟以上の被害である.2004年10月に発生した新潟県中越地震から約40km離れた場所を震源とする地震であり,新潟県では3年間で2度の地震に襲われたことになる.今回の報告では,地震発生から応急対応期にかけての被災地域の状況と課題について報告する.
2.被害の概要と復旧状況
震源断層の近辺に柏崎刈羽原子力発電所があり,そのことが今回の地震の影響として大きな問題になっている.施設関連の被害とともに,風評被害によって観光産業や食品産業に被害がでているようである.倒壊した家屋は散見の限り,老朽家屋,増改築した家屋が多い.亡くなられた方のほとんどは70歳以上の高齢者ということも地震被害の特徴である.
建物の被害とともにライフラインの途絶,土砂災害の危険による避難指示・避難勧告により震源地付近の柏崎市を中心に,ピーク時で約12,000名以上の方が避難所に避難していた.夏場に発生した地震であるため,暑さ対策,衛生面での対策が問題になっている.ライフラインの復旧とともに現在(2007年8月1日)は避難所における避難者数も減少してきているが,約1,500名の方々が避難生活を続けている状況である.また今後,地盤が弱まっているところに対して,台風や集中豪雨による複合災害の危険性が懸念される.
表 地震と主な被害の概要(2007年8月1日現在)
地震発生日時|2007年7月16日10時13分頃
震源地域|新潟県上中越沖
地震規模|M6.8
震度6強以上の地域|新潟県長岡市,柏崎市,刈羽村 長野県飯綱町
災害救助法適用自治体|長岡市,柏崎市,小千谷市,上越市,出雲崎町,刈羽村,三条市,十日町市,燕市,南魚沼市
人的被害|死者11名 負傷者(重傷)177名 負傷者(軽傷)1810名
住家被害|全壊1057棟 半壊1772棟 一部損壊20341棟
避難所及び避難者数|61箇所 1518名
3.主な調査地域の状況
3.1西本町周辺(7/17)
西本町を中心として東港町・新橋を含む一帯の地区は,街区の中には古くからの住宅が建て詰まっており,複数の死者が発生した被害の大きい地域である.外観上は被害が見られない住宅に混じり,完全に倒壊したり,1階が層破壊した築数十年は経っていると思われる住宅があり,中には道路や隣の敷地にはみ出していた例もみられた.倒壊した建物は,土葺瓦屋根や土壁の住宅や1階の柱・壁が少ない店舗等が多かった.
新橋にある原酒造では,昭和12年に建築された文化財的な価値も高い貯蔵庫や事務所など多くの建屋が被災し,出荷に備えて瓶詰されていた日本酒の在庫も被害を受けた.会社の方に話を聞いたところ,混乱した生産現場の後片付けや倒壊した建物の撤去に取りかかったところであり,その時点では被害の全体像は分からない状況と言うことであった.また日常の執務スペースも倒壊したため,もし地震が平日に発生していれば,人的被害は避けられなかったのではないかとのことであった.
3.2駅前周辺(7/17)
柏崎駅から北側の地区は,個々の敷地規模が大きく,産業・業務商業用途がメインである.比較的新しい工場やホテル,公共施設等が多いため,他の地区に比べれば建物被害は目立たなかった.ただし道路上には,壊れた水道管から漏れたと思われる水が流れていたり,道路に砂が噴き出した液状化の跡が見られた.また柏崎駅では,傾いた電車車両がそのまま残されていた.
3.3避難所の状況(7/20-21)
地震発生から4日後の7月20日から21日にかけて,柏崎市柏崎小学校,刈羽村生涯学習センター(ラピカ)等,7地点の避難所をまわった.調査時点においては食料・水は行き届いている様子であった.食事は,自衛隊の災害派遣部隊等によって定時に炊き出しの食料が配給されていた.また暑さ対策として,扇風機,氷等が各避難所に配布されていた.避難所の運営は県職員や他自治体から支援にきた行政職員によって行われていた.
昼間,避難所にいる被災者は高齢者,幼児等であり,人数は少なかったが,夜間になると避難所に滞在する避難者数は増えるようであった.被害のあった家屋の片付けや仕事などを昼間は行っているためだと推察される.各避難所などで提供されている仮設風呂は避難者にも喜ばれているようであった.各避難所にいる被災者は疲れている様子が見える一方,子供たちは比較的元気な様子であった.
3.4ボランティアセンターの様子(7/21)
7月21日に刈羽村ボランティアセンター,柏崎市ボランティアセンターを訪れた.刈羽村ボランティアセンターには,ボランティア受け入れ前の準備,受け入れ時に訪れた.災害発生直後を除いて初めての休日ということもあり,多くのボランティアの方々が各地から来ている様子であった.各避難所などに多くのボランティアの方々が行っている一方,応急危険度判定で「要注意」,「危険」と判定された家屋にはボランティアの方を行かせることができないため,支援できない等の状況も見受けられた.
3.5曾地地区 (7/22)
長岡方面から国道8号線にて柏崎へ向かう途中,曾地峠を越えて柏崎市街地に入り,最初に家屋倒壊が目についた集落である.瓦屋根の古い建物で倒壊したケース,住宅として使っている母屋は建物構造的には修理できそう(ただし室内の食器等は散乱)だが,倉庫は倒壊被害を受けたというケースが見受けられた.一方,比較的地盤の点で不利な場合のある小河川沿いの宅地で,被害が顕著ということはなかった.水道とガスは7/22時点で不通で,避難所である集落内の中通小学校では,自衛隊によるお風呂の提供がなされていた.また小学校に併設のコミュニティセンターでは,飲料水やブルーシートが配布されており,近所から自家用車で取りに来ていた.屋外防災無線で風呂の提供時間やボランティアの案内などが継続的に放送されていた.
3.6東本町二丁目(7/22)
えんま通り商店街のある東本町二丁目地区は,歩道にかかるアーケードが傾き,建物被害が集中した地区の1つである.車両通行止め規制は継続されていたが,歩行者の通行は可能であった.建物自体の被害が小さかった店舗では,片づけを行っているケースもあった.通行止め区間のある喫茶店では,営業を再開し「元気カレー」を提供していた.
幹線道路から街区内の道に一歩入ると比較的低層高密の住宅地が広がるが,このような住宅地では倒壊建物のガレキが道路上に流出している地点(ある程度,ガレキを敷地内に戻す作業は済まされていたが)が見られた.現場踏査時,押し車を使って外出する女性高齢者が,通行困難で別の道へ迂回しようとしていたので通行を手助けした.ハンディキャップを持った方からみた,復旧活動時の道路閉塞問題として一考させられた.
3.7新花町(7/23)
柏崎市役所の北東に隣接し,飲食店を中心とした繁華街である.古い木造住宅の被害が集中している街区が見られた.また,SRC造で建物が傾斜し,鉄柱と基礎にズレが生じていた被害建物も見られ,揺れにより露出した鉄骨は,潮風の影響もあるのか,腐食が進んでいた.店主兼建物所有者の話しによれば,1978年の竣功,1,2階を店舗,3,4階を賃貸住宅として利用していた.店主は,解体工事にかかる費用と公的補助はあるのか,営業再開に向けて利用できる支援策を早く示して欲しい(1度市役所に相談に行ったとのこと),と要望されていた.
4.調査で気づいた点及び今後の課題
4.1被災した中心商店街の復興(明治期大火後の復興土蔵とその被害)
建物被害の大きかったえんま通り商店街,東本町の交差点をはさんで西側に,再開発による「ショッピングモール・フォンジェ」がある.建物構造的には小被害であった再開発ビルは,えんま通り商店街の復興空間イメージとなるかどうか.これまでにも再開発の働きかけはあったであろうし,一つの選択肢としては充分考えられよう.ただし,他の選択肢はないだろうか.
現場住民の方から,このあたりに土蔵が多いこと,古い住宅の壁材に土壁が多用されているのは,明治期の大火で不燃化をめざしたため,という話しを聞いた.『火災便覧』によれば,
1880年(M13)8/8-9,柏崎本町,2700戸焼失
1897年(M30)4/3,柏崎町より出火,1243戸焼失.
と,明治期に2回も大火被害を被ったと記載がある.つまり明治期の市街地大火からの復興の営みが,現在の町の一つの遺伝子と考えられる.今回の被災した中心市街地における復興を検討する上で,この大火復興の経験は1つのヒントになるように思われる.
4.2減災型コンパクトシティ
これからの中心市街地の復興を考える上では,中心市街地の復興を,都市全体の持続可能性という視点から位置付けることも重要ではないだろうか.それとも,都市全体としての復興空間像を考えることは難しいだろうか?
人口約9万4千人の柏崎市は,JR柏崎駅と中心商業地域,市役所等官公庁街,海水浴のできる海岸が人が歩いていける距離圏内にある.また鉄道を挟んで工場地域が広がっている.
ヨーロッパを中心に,サスティナブルな都市を実現する空間形態として,コンパクトシティというコンセプトが掲げられている.その意味は多様であるが,マクロ的には分散より集中を,ミクロ的には,できるだけ徒歩や自転車で利用できるような範囲に日常施設のある近隣生活圏を構成する,ことをさしている.日本においては,青森や福井で取り組みが行われ,神戸市でも,震災後の法定基本計画を検討する上で,コンセプトの一つとして取り上げられた.しかし現状では,防災の視点からの検討は充分であるとは言い難い.柏崎における復興空間像として,減災型コンパクトシティ,は検討に値するのではと思われる.
4.3復興まちづくりの進め方(複線型復興と仮設市街地)
復興に向けた住民と行政の協議を,どのように進めていくか.あくまで一つの考え方として2点,述べたい.1点目に,復興まちづくりに関するプランの示し方で,ここでは代替案も含めた複数案作成することが考えられる.世帯ごとに被害損失程度は異なるし,被災前までの生計状況もそれぞれ異なっている.この相違を勘案しながら,復興プランを複数案提示していくことがあり得るのではないだろうか.2点目に,「地域と復興の協議を進める」ための「仮設市街地」である.詳細については都市計画267号の浜田論文を参照いただきたいが,担保力,ローンを借りることが難しい商店主に対して,居住継続(生活再建)と営業補償(家計の回復)プログラムを提示できる一つの方法であると考えられる.
4.4避難所における課題
ライフラインの復旧とともに,避難所にいる避難者数は次第に減少してきている.一方で帰る家のない被災者に対しては,仮設住宅の入居までの期間,衛生面,熱中症など夏場特有の問題があり,そのための対策が重要になる.今後,疲労がたまってくることが予測されるために体力面のケアとともに,精神面へのケアのための対策も重要である.
避難所は罹災した方々の避難施設として利用されている一方,物資の供給地点,被災者への支援施策に関する情報提供の場,被災者間でコミュニケーションをとる場等の性質もある.避難所を単なる被災者の避難施設として位置づけるだけでなく,今後,被災者がより不快感なく過ごせるようにするための対策を実施するとともに,避難所外にいる被災者への対応の拠点等として位置づけることも重要である.
4.5複雑化した社会における間接被害の連鎖への対応
今回の震災は,(国土レベルでみれば)直接被害を見る限り新潟県柏崎市を中心とする局所的震災である.しかし,柏崎刈羽原発の停止により東京の盛夏の電力不足が大きな問題となり,自動車部品工場の被災により日本を代表する産業である自動車の生産ラインが停止するなど,一地域の地震の影響が全国規模に波及することが示された.さらに,原発事故から放射線物質の漏洩についての風評被害も発生している.
今後想定される首都直下地震や南海トラフ地震では,「自分の地域は,それほど揺れないから」と安心している地域もあるだろう.しかし各地域の機能が複雑に結びついた社会では,特に産業部門を中心に,現在では想像もしていない間接被害の連鎖が発生する可能性がある.企業や地域の防災計画・復興計画においては,間接被害も視野に入れ,最悪の状況に備えておくことが求められる.
5.おわりに
本報告は速報的に現状で把握される問題点を報告者の主観で示したものである.今後,復旧・復興がすすむにつれて新たな課題もでてくるものと思われる.これらに関する調査・研究については今後に期待したい.
なお,紅谷,照本,市古はそれぞれの調査グループの一員として調査を行った.各調査グループのメンバーと日程は以下の通りである.
7月17〜18日:河田惠昭,平山修久,堀井宏悦(以上,人と防災未来センター),福留邦洋(新潟大学),木村玲欧(名古屋大学),紅谷昇平(人と防災未来センター)
7月20〜21日:近藤民代(人と防災未来センター),菅磨志保(大阪大学),奥村与志弘(京都大学),照本清峰(人と防災未来センター)
7月22〜23日:覚知昇一,金田正史,柳沢一希,櫻井健也,市古太郎(首都大学東京大学)
(敬称略)
末筆であるが,被災者の方々にお見舞い申し上げるとともに,一日も早い復旧・復興を祈念します.また調査においては,澤田雅浩先生(長岡造形大学),福留邦洋先生(新潟大学)から被災地状況などについて教唆いただきました.中林一樹先生(首都大学東京),石川永子氏(首都大学東京)から7月20日時点における被災地の状況について示唆をいただきました.調査にご協力いただいた方々,調査メンバーに厚く感謝いたします.
執筆担当
照本清峰:1章,2章,3.3,3.4,4.4
市古太郎:3.5,3.6,3.7,4.1,4.2,4.3
紅谷昇平:3.1,3.2,4.5
能登半島地震調査報告(2007.05.10 公開) |
[能登半島地震復興調査の速報PDFファイル(1.1Mb)]
1.はじめに
2007年3月25日に発生した能登半島地震(M6.9)では、輪島市、七尾市、穴水町において震度6強を記録し、死者1名、重傷者26名、全壊595棟、半壊1,204棟などの被害が発生した(4月30日現在、石川県発表)。
わが国おいては2004年10月の新潟県中越地震以来の大きな地震災害であり、中山間地域、地方都市の災害調査方法、復興指針等を検討するに際してこの能登半島地震は参考になる災害と考えられる。そこで日本都市計画学会地震災害復興調査活動指針(案)作成分科会では、4月6日(金曜)〜4月7日(土曜)の2日間にかけて被害の概要について把握することを目的として現地調査を行った。
調査は主に外観からの目視による被害状況の把握、旧門前町総持寺周辺ではGPSを用いた被害建物の位置情報計測を試みた。なお今回の調査は、澤田雅浩、石塚直樹(以上長岡造形大学)、三平洵(慶應義塾大学)、福留邦洋(新潟大学)のメンバーで行った。
2.被害概要と復旧状況
今回の地震災害では、輪島市、七尾市、珠洲市、志賀町、中能登町、穴水町、能登町の3市4町に災害救助法が適用されたが、建物被害において全壊595棟のうち、輪島市446棟、穴水町67棟、七尾市62棟と2市1町で95%以上を占めている。避難者は地震発生翌日の3月26日における47カ所、約2600名を最大として減少している。避難勧告はこれまで輪島市において3カ所9世帯に出されたのみで、被災地へ広域に避難指示、避難勧告が出された新潟県中越地震とは異なっている。約7,600棟を対象とした応急危険度判定は3月30日で完了した。被災地の停電は3月26日夕方、断水は4月7日朝にすべて解消している。公共交通についてはJR七尾線が3月26日昼、第三セクターのと鉄道が3月30日、能登空港は3月26日に再開した。また地域の基幹道路である能登有料道路も4月27日には全通した。
3.旧門前町の被害
今回の地震では輪島市の旧門前町で大きな被害が発生している。現在の輪島市は2006年2月1日に旧輪島市と旧門前町が合併して誕生した。輪島市門前総合支所の現地対策本部発表資料などによれば、地震が発生した3月25日夜には旧門前町において18カ所、約1,500名(旧輪島市地区では、8カ所、約700名)が避難所ですごした。これは旧門前町の人口(7,821名:3月1日現在)の約2割に相当する。4月27日時点(仮設住宅完成前)では4カ所、159名と大幅に減っているものの、65歳以上の高齢者が89名と過半数を占める。ちなみに旧門前町の高齢化率は47.35%(輪島市全体では34.95%)と旧山古志村など新潟県中越地震の被災自治体を上回り、きわめて高齢化が進んでいる。
り災証明発行にともなう建物被害状況は、住宅(住家)が全壊232棟、大規模半壊38棟、半壊282棟などであり、全・半壊率は38.9%と被災率において他の自治体より突出している(旧輪島市地区は8.6%:いずれも4月6日現在)。山間部では土砂災害等による道路閉塞や農地被害などが一部の集落でみられるものの、大きな建物被害は、総持寺周辺地区、道下地区など平地集落、黒島地区、鹿磯地区など沿岸集落である。応急仮設住宅は、総持寺周辺(館)、道下に計180戸建設され、4月28日から順次引き渡しが始まっている(輪島市全体では4カ所、計250戸の予定)(写真1)。
4.主な調査地の被害状況
(1)穴水駅周辺(穴水町)
のと鉄道穴水駅周辺には銀行、農協、図書館などが立地し、いくつかの商店街があり、山王川の河口に市街地が広がっている。地形図からは一部埋め立ても行われていることがうかがわれ、敷石やマンホール周辺の地盤変形、砂の飛散などから小規模な液状化現象の発生も推測された。駅周辺は隣棟間隔が狭く、公園等まとまった空地に乏しく、地震発生直後の応急避難場所として駅前広場などが利用された模様である(写真2)。調査時点において、建物の解体作業が進められ、更地となっている場所も散見された(写真3)。規模の違いならびに公費による解体・撤去費用への補助の有無などが影響しているかもしれないが、解体・撤去時期は新潟県中越地震等と比較して早いように思われる。更地となった場所に従前居住者の避難先や安否情報が示されている点は阪神・淡路大震災や中越地震と同じである。税務署には被害による所得税の減免措置に関する掲示がなされており、こうした面に関しては迅速化が進んでいる。
大きな被害となった建物は1981年の新耐震基準以前のものが多く、原型をとどめない層破壊まで至った事例は限られるようである。全壊建物の近隣に外観上は無被害に相当する在来工法の木造建物もみられた(写真4)。
(2)輪島朝市・本町通り(輪島市)
輪島市の代表的な観光地であるとともに近隣住民にとって重要な市場でもある。午前中に営業し、多い日には200店舗以上が出店するそうである。4月11日から通常営業になったとのことであるが、訪問時にはまだ20〜30店程度しか出店しておらず、観光客より報道関係者が目立つ状態だった(写真5)。この朝市は本町通りという商店街に沿って営まれる。本町通りの建物には、り災証明発行のための被害調査がすでに行われたことを示す紙が貼られていた(写真6)。整理番号、り災証明に関する連絡場所が記述されており、所有者は建物の被害判定結果等内容について確認できると思われる。
本町通りでは数棟の町屋的な建物において解体、撤去作業が行われていた(写真7)。解体建物でなくても町屋的建物は土壁の落下が多く、立ち寄った商店では、震災発生による土と埃の多さを指摘する声が聞かれた。本町通りの建物被害は穴水駅周辺の商店街よりも小さく、今回の震災により大きく街並みが変わるような建て替え等はないと思われる。また、この地域の活力として朝市出店者の存在が重要であるが、海産物等の販売をしている出店者が多く、漁が再開され客が朝市に戻ってくるのと呼応して目に見えて復旧・復興が進んでいくものと思われる。
(3)旧門前町総持寺・役場(現・輪島市役所門前総合支所)周辺
曹洞宗の本山である総持寺の周辺には役場や県立門前高校などが存在し、旧門前町の中心地区である。総持寺の門前町としてこの地区にはL字状に商店街がある。この商店街の通りに関して建物を悉皆で写真撮影し、GPS機器を用いて撮影場所の位置情報を記録することにより被害建物の分布状況について把握に努めた。
被害は層破壊の建物がある一方、外観的には無被害に近い建物も散見された(写真8)。この地区では2002年6月に「総持寺周辺地区まちづくり協議会」が設置され、外観や壁面線などに関するまちづくり協定が結ばれている。さらに2003年度から街なみ環境整備事業の対象地区となっており、このため近年新築された建物や改修された建物も周辺の建物と調和した色彩やファサードなどに配慮がみられ、屋根は大部分が黒の能登瓦となっている(写真9)。こうした取り組みがあるためか、地震発生から10日目の4月3日には協議会主催による被災住宅に関する専門家への相談会が実施されている(写真10)。また現地調査では曳屋業者による作業途中の様子もみられた。阪神・淡路大震災や新潟県中越地震では修復可能な全壊建物の多くが解体されたといわれている中で、早期に修復に関する相談の場を行政の理解も得ながら設けたことは注目に値する。同じ町内でも黒島地区や道下地区にはまちづくり協議会がなく、調査時点で住宅相談等も本格的には行われていなかったようである。
5.調査で気づいた点および今後の課題
(1)応急危険度判定の説明記述とり災証明のための被害判定との関係について
現地調査で気になった点としては、応急危険度判定結果の用紙に理由が明記されていないなど調査者により記述程度、内容に大きな違いのみられたことがあげられる(写真11)。外観で倒壊等大規模な被災がわかる建物については問題ないものの、例えば隣接建物の倒壊可能性から危険(赤紙)となっているものについては、結果的にり災証明判定結果と大きく異なり所有者等の認識に混乱を生じさせる懸念がある。応急危険度判定とり災証明にともなう被害判定との連携に関しては以前から指摘されているものの、具体的な解決には至っていない。少なくとも調査に携わる関係者には2つの調査の目的と違いを理解してもらい、判定理由については所有者にわかやすい記述をこころがけることが望まれる。
(2)被災高齢者世帯へのきめ細やかな支援
過去の災害による被災地を上回る高齢化社会では、住宅修理等再建への意欲が停滞する可能性がある。特に全壊等により解体した場所は長期間にわたり更地化する懸念が残る。また支援制度等を設けても、その内容を適切に伝達、解説するしくみが伴わなければ、被災者に正しく理解されず、活用が不十分になるのではないだろうか。今回の調査では十分に状況の把握を行うことが出来なかった海沿いの黒島地区や道下地区では、漁業や農業のようにその場に住み続けることが必要とされる産業との関係が希薄であり、その点からも地域に残って再建するという機運をどのように醸成し、支援するかが今後の課題として挙げられる。
(3)通常時のまちづくり活動の重要性と復興まちづくり
旧門前町総持寺周辺地区のように従前からまちづくり協議会があり、活動が行われた地域では住宅相談会の開催など復旧・復興への迅速な取り組みがみられた。これは阪神・淡路大震災など過去の災害でもみられたことであり、通常時のまちづくり活動の重要性が再認識されたと考える。一方、大きな被害が発生した旧門前町の黒島地区や道下地区などいくつかの集落では地域としての復興活動が必要となってくるが、著しい高齢化、過疎化の地域において、地域復興の中心を担うキーパーソンとなる人物をどのようにして発掘、育成するかは課題と思われる。
(4)地域戦略としての産業復興の位置づけ
観光産業が集積する旧輪島市などの被害は少なく、宿泊、商業施設ともほぼ問題ないと思われる。しかし風評被害による長期化の兆しがすでにうかがわれる。すでに今回の震災では、漆器、酒造、商店街等対象とした中小企業復興支援基金の創設が具体化しつつあるが、集落の維持等地域全体の復興を描く中でどのように位置づけるか戦略を明確化しないと以前から停滞気味の産業をしばらく延長させるだけとなる可能性がある。被災地外から調査・取材に訪れる場合、被害のある建物や地域を調査することとなるが、震災によっても大きな被害を受けなかったものに関しても並行して情報を提示することも風評被害からの早い立ち直りに際しては重要であると思われる。
6.おわりに
能登半島地震は新潟県中越地震等と比較して、被災地の広がり、倒壊家屋数等かなり限定される。この点では既存の制度を適用するだけでなく、さまざまな新しい方法を試すことができるとも考えられる。
なお前述の通り、旧門前町総持寺周辺地区ではGPS機器を用いた建物被害調査を行ったため、本分科会としても継続的な復旧・復興調査を検討することは可能と思われる。